平泉と宮城を訪ねて4

観光地・松島の復興
3月10日午後、気仙沼からは国道45号線を南下。左側には太平洋が見えます。
風は強いけれど、天気は晴れ。車から見る限りは、陽の光を反射している海はのどかです。
でも、やはり、海沿いは線路なし、駅のホームのみ、トンネルと家の基礎部分のみ。
いっぽうで道の右側、山側は地震の跡はあるものの、これといった震災の痕跡はありません。ただ、畑や田んぼだったと思われるところのいくつかはが、がれき置き場になっていました。工場や倉庫も、ぱっと見はふつうですが、やはり急造の仮設だったりところどころに錆びや変形がありました。
志津川の先で45号線は右折して内陸部へ入ります。やがて北上川にぶつかり、今度は北上川沿いを南下。石巻を経由して松島に行きました。
さすがに日本三景。松島は観光客がけっこういました。
いまから55年ほど前、私はここで写真を撮っています。画像母と父方・母方の祖母、叔母とともに写した写真。撮ったのは父でした。背景は五大堂。その同じ場所で、写真を撮りました。画像
1957(昭和32)年の夏、ここは岸壁ではなく、砂利の浜辺だったんですね。
松島はとくに大きな被害もなかったようですが、ある土産物店の入り口にで、高さ1メートルほどのところに「津波はここまで」という貼り紙がありました。
津波の被害がなかったのではなく、2年たって、ようやく元の状態に戻りつつあるということなのです。それは、国の復興政策のおかげというよりも、やはりここが一大観光地であるということだからなのでしょう。
では、そういうものがないほかの地域はどうなのか。牡蠣の殻焼きを食べながら、ちょっと考えてしまいました。
多賀城と大河ドラマ、周辺と中央の感覚
松島を出て、多賀城へ。夕方になって風はさらに強く、そして冷たい。春物のジャケットではダメ。ダウンを着こみました。
多賀城跡では、3.11を前に追悼イベントが開かれるところでした。画像
多賀城というのは、奈良時代に中央政府が奥羽一帯を支配するために設営した政庁です。言ってみれば、これができて以来、東北地方はずーっと収奪・簒奪・搾取され続けているのかもしれません。画像
正月にNHKは『アテルイ伝』というドラマを放送しました。で、大河ドラマは会津が舞台の『八重の桜』。
東北地方に気を使っているということなのでしょうが、岩手や山形、秋田、青森など、いわゆるディープ東北にとっては、会津ははっきり言って「北関東」です。また、福島県内でも、福島市や郡山市などの中通り、相馬や浪江、いわきなどの浜通りの人たちにとっても、会津は別の国のような感覚ではないでしょうか。
実は、東北自動車道で、福島県内のSA・PAに入ると、「八重」のコーナーは設けられているのですが、いまひとつぱっとしません、というか、「大河の地元だぁぁぁ」といったような熱が全く感じられませんでした。それは、昨秋に訪ねたいわきなどでも同じ。幟は立っているのですが、とりあえず、商工会から支給されたので立てているといった「お義理」的な印象を受けました。
そりはなぜか、どういうことなのか。
つまり、東京であれ京都であれ、政府であれ議会であれ、いわゆる「中央」にとっての東北というのは、どれもこれもみな一緒という感覚なのでしょう。
私がよく腹を立てるのは、下北半島も津軽も、「青森」でくくられること。言葉も違えば風俗習慣も違う、気候も異なるし植生さえ異なるのです。
ま、それにいちいち目くじらを立てるのはよしましょう。
だけど、青森県の八戸から岩手の三陸、宮城、福島までの太平洋沿岸部という広い地域を、ただ「東北」でくくっていいのでしょうか。それぞれに事情が違うのです。
松島は観光地です。店や宿泊施設をなんとか立て直せば、人はやってきて、原状復帰が可能です。本来は「復旧」なのてすが、まあ百歩譲って「復興」というなら、それでもいいでしょう。
では、それ以外の場所・地域は? 絶対に松島と同一に論じることはできないでしょう。
多賀城を後にして、私たちは仙台市に向かいました。
今夜は仙台どまり。3.11は岩沼の相の釜に向かいます。
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2013-01-09
山下 祐介

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