平泉、宮城を訪ねて2

さて、日をおかずに、ブログの続きです。よっえらい! 勤勉! と、自分でほめてどうする。いままでが怠惰だったくせに。
閑話休題
気仙沼市内で
3月10日、平泉の宿を9時過ぎに出発。国道4号線を南下して、一関で国道284号を右折。ひたすら気仙沼市を目指します。距離にして約60㎞。
一関から、フジテレビの中継車両2台の後ろに付きました。けっこうスピードを出していたので、生中継の都合で急いでいるのかなと思ったら、途中のコンビニの駐車場に入っていきました。
あとはひたすら制限速度で、気仙沼へ。片側一車線なので、とにかく前の車についていくしかありません。ま、急ぐわけではないので。
気仙沼の国道45号線との交差点についたのは午前11時。45号線を少し走って左折して、市内に入りました。
気仙沼大橋を渡り、気仙沼線を過ぎたら…景色が変わりました。
朝日新聞の夕刊で、しりあがり寿さんが描いていたように、いきなり「なんにもない」…。
ところどころに建物があるのだけれど、壁と柱はそのままで内部はがらんどう…。
工場や倉庫のような建物で残っているものは、どれも錆びています…。
ほかは浜辺のような砂と、基礎…。
カメラは持っていましたが、撮ることができませんでした。
「何ができるのだろう」「何かすることはないだろうか」「見てきたことを帰ったら伝えよう」と、ここに来る前は思ってましたが……。何をしても何を言っても、どう言えばいいでしょうか、妙に空々しい感覚がありました。
情けないことに、私は舗装だけはされた道を走り、また国道45号線に戻ってきてしまいました。
津波にさらわれた場所、火災のあった場所…。見なければいけないところ、知っておかなければいけないことはたくさんあったのかもしれません。
でも、私は車を進めてそれを見に行くことは、とてつもなく不遜で、恥知らずで、傍若無人な振る舞いだと感じたのです。
逃げるつもりはありません。ただ、自分とつながりのある人がいたわけではない場所なのに、「見る」ために行くことはできなかったのです。
モニュメントなり慰霊碑があれば、そこで祈ることもするべきだったのかもしれません。でも、それすらもなんとなく「そらぞらしげな振る舞い」になるような気がしたのです。
ただ、東京に戻ってあるドキュメンタリーを見てから、それはおおきな間違いだったのかもと思い直しました。それについては、翌日の岩沼のことを書くときに話します。
叔父さんの家へ
気仙沼市内から国道45号線に戻って南下。母の弟、叔父さんの家は本吉町というところにあります。
そこへ向かう道は海沿いを走ります。海側を並走する気仙沼線は、線路がありませんでした。
トンネルはありました。駅の入り口という表示もありました。でも、駅も線路もありません。
3.11の直前、東北新幹線が青森まで(ホントは新青森)開通しました。いま、何の支障もなく動いています。
でも、本来は新幹線の復旧よりもこの海岸沿いの人たちの生命線の一つである在来線や第三セクターの復旧を急ぐのが筋じゃないかと、改めて思いました。
復興のために新幹線がなんの役に立つのか、そもそも復興とはなんなのでしょうか。
被災した東北の街や人は、もとの暮らしに戻る「復旧」が必要なのではないでしょうか。
叔父さんの家は、高台にあります。風は強いものの、太平洋が見え、陽が差し込み、ポカポカしています。
地震の時、叔母さんは気仙沼市内にいたそうです。道路も線路もダメ、津波もあって戻れたのは3日目。
叔父さんは足が悪く、車いすです。数年前に脳卒中になり、少し手が不自由です。
それでもガスはプロパンだから使えるので、インスタント食品を食べてなんとか無事に過ごせたということです。
ただ、だれとも連絡がつかず、テレビもダメで情報が入ってこない。叔母さんだけでなく、気仙沼や仙台市にいる子供や孫もどうなったかわからないという数日間は、どんなに不安だったことか。
知り合いの方が一人、津波で亡くなったそうです。
鉄道は動いていません。津波にやられた畑は、県や市が買い取ってがれき置き場にするそうですが、売るのは嫌だという人もいてなかなか先に進んでないということでした。
2時間ほど話をして、いっしょに写真を撮って、お暇しました。
よく考えたら叔父さんと会ったのは実に22年ぶり。もっと話をすればよかったかなと思いつつも、元気な様子を見て、それをおばさんたち(姉妹)に伝えられることでいいよなと思いました。
叔父さんの家とそのまわりは、震災前とほとんど変わっていないのに、そこから道を下って国道45号に出ると、やはり海沿いは砂地とがれきと建物の基礎が並んでいました。
「道の駅大谷海岸」は仮設のプレハブで営業していました。一昨年の秋、いわきを訪ねたときに寄った「道の駅四倉」を思い出しました。ある程度の組織がバックになっているところも、まだこうなのです。
あれから1年半ですが、これ一つを見ても「復興なんてどうでもいいから、復旧してあげてくれ」と言いたくなりました。
私たちはこの後、内陸に入り、北上川沿いを下って松島、多賀城に向かいます。それは、その3で。

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