大震災被災地に復興よりも復旧を

九月後半の三連休ど真ん中、福島県を訪ねました。前日の朝、ニュースで福島市の観光農園が、この時期に誰も来ないというニュースを見たからです。
放射線の数値は危険ではない地域で、これは明らかな風評被害。私は、ボランティア活動などに行くことはできませんでしたが、せめて被災地に行って物を買ったりすることで、何かの助けになるのではないかと思ったからです。
東北道を郡山まで行き、観光農園でブドウか梨狩り。もちろん、お土産も買って、さらに磐越道を東へ行き、いわき市へ。そこから常磐道で東京へ戻るというルートでした。
朝早く出たおかけで時間があったので、猪苗代湖に足をのばしましたが、連休の真っ最中だというのにガラガラ。「人が来ない」というのは本当だったのだと実感しました。
おみやげのお菓子を買って、49号線で郡山市へ。観光農園に着いたのですが、営業していませんでした。
人が来ないせいなのでしょうか。
いわき四倉で言葉を失う
やむなく磐越道でいわき市へ。高速を降りて、北へ向かいました。福島第一原発の事故で立ち入り禁止になっていますが、できるだけ近くまでと思ったのです。緊急時避難準備区域の手前でしたから、車が少なかったり人通りがなかったりはしたものの、それなりに平穏でした。
でも、Uターンして6号線を走り、四倉へ来て、ここは平穏どころではない、私の認識は間違いだったことを知らされました。
「道の駅」があるので、そこで海産物の食事とおみやけでもと思い、車から降りた時です。
道を挟んだ向かい側の建物は、一階が津波で破壊されていました。よく見ると、いま通り過ぎてきた道路沿いの建物はほとんどがそうでした。遠くから見たり、ただとおりすぎただけでは気がつかないかもしれません。でも、一帯の建物はみんなそうなのです。画像
道の駅は、仮営業でした。もちろん、食堂などの営業はなし。果物や野菜、焼き魚や干物、土産物を並べ、ラーメン屋や弁当が売られているだけでした。
果物、野菜を買って(とてつもなく安い)外に出ました。港だった一帯は、フェンスがねじまがっていたりもぎとられていたりでした。津波で打ち揚げられた漁船、壊れた自動車がありました。人はおらず、水たまりにはカモメが遊んでいました。画像画像
道の駅の裏の建物は、交流館。フードコート、農水産物の売店、そばやなどがあったところですが、建物の外部だけが残り、中は何もありませんでした。「道の駅で海鮮丼を食べよう」という私の考えは、途方もなく能天気なものだったと気づき、ただただ呆然とそのようすを見るだけでした。
1995年12月に神戸を訪れた時、やはり遠目には平穏を取り戻したと思った町で、傾いたビルや液状化で凸凹になった道を目にしたことを思い出しました。その日、ルミナリエが行われる神戸は、復興したのだと思ったのは大きな間違いだったと気づきました。
漁港をぐるっと見て車に戻ろうとしたとき、側溝が壊れた板壁で蓋をされているのを見て、暗澹たる気持ちになりました。さらに、折れた街灯や電柱がそのままになっていました。もうひとつ、うかつにも、信号が壊れたままだということに、そのとき気づいたのです。画像画像
誰もが被災地の「復興を」と言います。復興とは、元の盛んな状態に戻すことです。
ですが、盛んにするどころか、ここでは「ただ元の状態に戻す」という「復旧」すらできていないのです。壊れた側溝の蓋、折れた電柱の撤去、街灯と信号の補修。そんなこともできていないのに、復興なんかできるわけありません。
復興する、だから増税を、そのための予算編成を早く。そういう前に、まず、これらのものを、人々の暮らしに必要なものを「元の状態に」早く戻すこと。
東北の北の端の過疎に悩む地域の出身である私は、被災地を経済の盛んな状態にする必要性を感じないし、できるはずがないと思っています。そもそも、それは無理な相談です。
そうしようとした結果が、原発や核のゴミの受け入れだったのですから。
「盛んにならなくてもいいから、まず元の暮らしに戻してやってほしい」そう思います。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック